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インタビュー

武士末研郎氏

2012年1月30日

「ガムシャラに生きる」・・・監査法人を経ない生き方

準会員会・四国分会では、2010年に引き続き四国出身の会計人の活躍を伝えるべくインタビューを実施しました。
2011年は、10月9日に日本公認会計士協会・四国会会長である武士末研郎先生(愛媛県松山市出身)の事務所を訪ね、独立へ至る経緯、若手へのメッセージなどをお聞きしました。
武士末先生は、36歳で一念発起して公認会計士2次試験に合格され、監査法人を経ずに独立開業された異色の経歴をお持ちの方です。現在の公認会計士試験合格者に対しても参考になる部分が多いのではないでしょうか?
(2011年10月9日 武士末会計事務所 愛媛県松山市)

日本公認会計士協会 四国会会長
公認会計士・税理士・中小企業診断士 武士末研郎先生を訪ねて

 
Q1 公認会計士試験を目指すまでの人生について教えてください。

 私は,松山生まれの松山育ちです。鉄工所のオヤジとしてよく働いていた父親の後姿を見て育ちました。そんな父の後姿を見て育った為、子供の頃から人間は死ぬまで一生懸命働くのが当たり前という価値観が身についていました。
 商売人の息子として育っているので、経済・経営に強い慶應義塾大学を志しました。高校までは勉学に励み優等生コースを歩んでいました。大学時代は、勉強はもういい、東京には住まない、松山に帰ると自分で決め、もっぱら本を読むこと、友人を作ることを心がけました。また、サッカーが好きだったので、サッカー同好会(慶應キッカーズ)に入会しました。
 また、当時は学生運動が流行っていましたがこれには全く興味がありませんでした。しかし、麻雀はよくやりました。期末試験中にもかかわらず麻雀合宿だと称して3回生、4回生の時に熱海や相模湖に仲間と遊びに行ったりもしました。懐かしい思い出です。麻雀でかなりな時間を無駄に浪費したなと思うこともありますが、たくさんの友もでき、悔いはありません。一方、人生において「無駄の必要性」ということも学びました。そんな中簿記と出会ったのは大学時代です。しかし、期末試験で精算表が出題されましたが貸借の右、左など合うわけがなく、ついた点はCでした。
 先ほど言ったように、大学に入った時から、長男だからいずれは松山に帰り家業の鉄工所を継ぐと決めていました。しかし、若い時に東京で生活したことは良かったと思っています。卒業して当初は地元の伊予銀行に勤めました。5年間勤務すれば貸付係を経験させてくれ、銀行サイドからの商売への見方が身につくと考えたからですが、母親の病等により半年で銀行を辞め、家業に就きました。

 
Q2 どのような理由で公認会計士を目指すことになったのですか?

 10年間家業に従事しましたが、結局、「鉄工所のオヤジ」になることはできませんでした。そして、商売に関わる仕事で自分に何ができるかということで、最初は中小企業診断士の資格をとりました。それだけでは生活が難しそうだと思い、その他には税理士か公認会計士があるが、どうせなら会計士の方がよさそうだ、と会計士を志しました。自分が育った中小零細企業での経験を生かすことができるし、その上に、より幅広い仕事ができ、また、地域貢献もできそうだと考えました。
 しかしその決意した時点では全く簿記等試験科目の知識ゼロ状態で、今から思えば単純かつ無謀だったかと思います。しかし、自分が家業の鉄工所を潰したようなものだから、その分、自分に納得いく仕事をしたい、安易に生きてはダメと、敢えて厳しい道を選び、また、子供には一生懸命に生きる父親としての後ろ姿を見せたいということも思いました。
 33歳のときに会計士を志し、単身大阪に行きました。松山には妻子が待っているということもあり、背水の陣で臨みました。当時は月に25日、1日10時間勉強をノルマとしましたが、5日の休日の内、3日間は松山に帰って妻子に会うのが何よりの励みとなりました。3年の区切りで勉強しましたが、なんとか女神がほほ笑んでくれ、合格することができました。

 

Q3 公認会計士試験合格後,会計士補時代から今に至るまでのご活躍を教えてください。

 2次試験に合格したときには36歳になっていましたね。年齢的なこと、妻子を養う必要があったことから、最初から監査法人には行かず地元で勤めると決めていました。当時は指導公認会計士の下で3年間実務を積めば3次試験受験要件を満たすという指導公認会計士制度があり、地元松山の指導公認会計士だった越智敏通先生の会計事務所で勤務することになりました。
 越智会計事務所では会計士補ということで、極力仕事を任せてくれましたが、逆に、それはその分自分で勉強しないといけないという動機付けになりました。仕事内容としては、監査は3割ほどで税務が主でした。当時は手書きで財務書類を作成していたので、貸借を一致させるのには苦労しました。また、修正伝票が1本入ると全部やり直しとなり、決算書類・申告書作成には非常に手間がかかりました。
 しかし、税務実務に触れることにより3次試験の役に立ちましたね。監査法人勤務の場合、税務申告書に触れる機会が少ないので税務については大きなアドバンテージになったのではないでしょうか。また、経理実務に携わることは、将来独立した際に役に立ちました。
 40歳で公認会計士登録、越智会計での5年半の丁稚奉公を経て、42歳で独立開業しました。開業してから、色々な公職にも就いてきました。中小企業診断士協会愛媛県支部常任理事、松山市包括外部監査人、愛媛県信用農業協同組合連合会員外監事、愛媛県社会福祉協議会監事、県中小企業再生支援協議会委員等色々な県や市の各種委員会委員に就き、昨年には四国会会長及び日本公認会計士協会本部理事に就任しました。したがって、当初の考えていた目的、公的な仕事を通じて社会貢献をするという目的を果たせているかなと実感しています。

 

Q4 若手へのメッセージをお願いいたします。
 特に伝えたいのはガムシャラに生きるということです。私はガムシャラに生きてきた結果、公認会計士となり独立して事務所を構えることができ、今は、公的な仕事を通じて社会貢献してきたという自負があります。父親は、「他人と同じことをやっていたら人並みでしかない。他人より良い生活を望むなら他人以上の努力すること。」とよく言っていましたね。大正生まれの父は、学歴はなく一介の職人でしたが、とにかくよく働きましたね。無口で頑張り屋でした。旋盤士で独立してから、30人程の職人を擁する鉄工所に育て上げました。私はそうした親の背中を見ながら、中小零細企業の中で育ちました。
 したがって、中小零細企業経営者の気持ちはよくわかるつもりです。中小事業経営には絶えず厳しい問題があり大変ですが、その中で従業員や家族を養っていかねばなりません。自ずと逞しさ、したたかさが身に付くと思います。よく感じることですが、周りは人をよく見ていますよ。この人は、わが社のために一生懸命やってくれているか、または、いい加減にやっているか、経営者は直感的に読み取ります。手抜きをしたり、こちらの事だけを考えたりするとすぐにしっぺ返しがきます。逆に、普段一生懸命に勤めていれば、ミスしても許してくれることもあります。本当に正直なもので、まさに「天網恢恢疎にして漏らさず」を実感しています。
 生きている以上は死ぬまで精一杯務める、が私の信条です。絶えず、家族のため、人のため、どういう生き方をするのか、自分なりに考えて行動していき続けたいですね。 好きな言葉があります。論語に出てくる曾子という人の言葉です。

「士は以て弘毅ならざるべからず 任重くして道遠し 仁以て己が任となす また重からずや 死してのち已む また遠からずや」
若い皆さんも、ガムシャラに生きて能力的にも人間的にも大きくなられることを期待しています。

 

インタビューを終えて
 武士末先生は,36歳で二次試験に合格し,独立したときには42歳だったとはいえ,それ以来様々な公職を経て現在は日本公認会計士協会理事・地域会会長にまで登り詰めています。もちろん,監査法人がバックにあったわけでもありません。しかし,そうなるためには,並々ならぬ努力があったことはいうまでもありません。受験生のときは松山で待っている家族を思い,合格後は,中小企業のため,地域のために貢献したいという気持ちでガムシャラに努力をした結果なのだと思いました。
 世の中のために貢献したいという気持ちで精一杯努力し,ガムシャラに生きていけば,多少回り道をしても,いつかは道は開けると,先生のお話を聞き,先生の事務所を見て,確信しました。

 
*文責 準会員会 四国分会 分会長 大平 泰裕
    準会員会 代表幹事     佐久間 玄任

 

武士末研郎先生:
愛媛県松山市出身。慶應義塾大学経済学部卒業。1983年公認会計士試験第二次試験合格。
会計士補時代は指導会計士越智敏通先生の指導を受け、公認会計士登録後独立開業。
松山市包括外部監査人をはじめとして公職多数。各種公職を多数経験したのち,日本公認会計士協会四国会会長(2010年~)。
公認会計士・税理士・中小企業診断士

 

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